通りすがりのINFJ

外で叫べないのでここで発散していきます

絵画ビジネス

 前回少しだけ触れた絵画ビジネスについて。先に断っておきますが、私は絵画をはじめとした芸術に興味はあり基本的に好きではあるのですが、あくまで趣味の範疇ですので深い知識は持ち合わせていません。的外れなことを書いてたらごめんなさい。

 ピカソの絵は複数の視点から対象が描かれていたりと、当時絵画の最先端を突っ走っていたため多くの投資家たちが金を投げ、バブル期のマンションみたいになってたそうです(勿論売れた理由は他にもあったでしょうが)。私は思いました。印象派のような万人受けするわかりやすく優れた絵ならともかく、キュビズムの独創的ともいえる絵画を投資家たちははたして正当に評価していたのだろうか。まあしていないでしょうね。ピカソよりラッセンが好きというネタが生まれるくらいですし。私も学が不十分なのでまだピカソの良さを理解しきれていません。ピカソの絵は絵画としての価値よりもむしろ投資の対象としての価値が大きかったのでしょう。だから芸術がビジネス化されていると批判もされたのでしょう。では、それまでは絵画は完全に芸術の世界におさまっていたのか。そんなこともないですよね。ビジネス色があまりに強くなりすぎたから世間的にも問題視されるようになったのではないでしょうか。

 私は芸術が好きです。音楽、建築、絵画。ジャンルも問わずわりと広く好きで、音楽であればクラシック(バロックから現代まで)や民族音楽昭和歌謡から令和の邦ロックまでいろいろと聴きます。絵画や建築は少し狭いですが国内外問わず、最近は住宅も少し関心があります。前回のブログよりよっぽど自己紹介ですね。まあそんな感じで芸術全般好きなので美術館に足を運ぶこともままあります。少なくとも同世代の平均よりは確実に行ってます。美術館に行くとき、私は芸術そのものに触れることを目的としています。絵画そのものです。なぜこの構図にしたのか、この色を用いたのか、ほかの絵画との共通点はないか、などと絵画の背景を考えるのが好きです。そして最終的に自分の価値観を広げてくれることをその絵画たちに期待しています。

 しかし、美術館に展示されている絵は過去の人間に高く評価され、価値があるとみなされたからそこにあるものがほとんどです。では、その評価基準はなにか。技術力、斬新さ、まあいろいろとあるでしょうが、数値化して客観的に完全に正しい評価をすることは不可能です。それが芸術の良さでもあります。しかし、目に見えないものさしで良いと判断されたものだけが私の目の前に絵画として掛けられている限り、私の求める純粋な絵画鑑賞はできない気がするのです。その絵画たちはすでに物差しによって選別された状態であるため、どうしても偏りが生じてしまっているからです。絵画を、芸術を評価しようとすること自体がナンセンスなのではないかと思いました。これが前回言及した「枠を作ることが問題」の一つです。そもそも芸術は何のためにあるのか。少し考えた結果、人によって芸術の定義は異なるのだし無理やり意味づけようとするのはナンセンスだとなりました。再びの枠問題です。話の方向性がだんだんわからなくなってきました。

 とりあえず確実なのは、今の評価基準のもと評価されているものが優れた芸術作品であると刷り込まれていること、価値観を広げたいのであれば自分が限られた枠の中で「芸術」と接しているというのを自覚する必要があること、でしょうか。ピカソの良さが理解しきれていないとはいえ、私はラッセンよりピカソ派です。ラッセンは絵として完成しすぎているので分析の余地が少ないことが理由です。私は完全に主観でピカソのほうが好きと言っているつもりですが、おそらくこれまで受けてきた枠に対する一種の洗脳がこう考えさせているところもあるでしょう。どんなことにも言えますが、私たちは社会から与えられた枠の中で生きています。それが必ずしも悪いこととは言えませんが、そのことを自覚するのはこの生きづらい社会を生き抜くうえで必要なことだと私は思います。なんか自己啓発本みたいになっちゃいました。ちなみに私は自己啓発本が苦手です。考え方を強要されていると感じることがあるからです。あ、書き忘れてました。絵画の価値が金で測られ、それをあたりまえのこととして受け入れている私は所詮資本主義の犬なんだなと思い、Xでつぶやきました。所詮資本主義の犬なんだとしか書かなかったのですが、過激派と思われていたらどうしましょう。熱でおかしかったということにしとけばいいか。それでは。