通りすがりのINFJ

外で叫べないのでここで発散していきます

「あなたはどんな人ですか」

「あなたはどのような人ですか」

こう尋ねらたとき、いったいどれだけの人が迷いなく答えられるのでしょうか。

そもそもこの問いを投げかけた人はどのような答えを期待しているのでしょうか。

一旦私の場合を考えてみます。私は茄子が好きです。好奇心は旺盛な方です。左利きでAB型です。人と関わることは好きですが、一人の時間も同じくらい好きです。

「私」について説明しようとするとキリがありませんが、ここで私が言及したのは「私」を構成する成分の中でも特に環境に左右されず、恒常的に私の説明として当てはまるものです。もっと言うと「今の」私に当てはまるものです。

多くの人は、その場その場の環境によって少なからず自らを変容させていると私は思います。自分が年少者であるときは周りの先輩なり上司なりに好かれるようなふるまいをする。逆に年下に対しては、なめられたり逆に怖がられたりしないよう、少し厳しいけれど頼りがいのある先輩を演じようとする。

この二つの状況だけにおいても、「私」の説明文は異なるはずです。つまり、「私」を構成する要素の中でも社会的な影響を受けやすいものほど、要素として不安定といえるのではないでしょうか。

では、逆に常に私を定義づけるものにはどのようなものが含まれるのでしょう。

血液型や利き手、性別などの生物学的な要素、飽きやすい、怒りっぽいなどの遺伝の影響を受けやすい性格的要素、でしょうか。

染色体数や身長といった自分ではどうしようもできない生物学的な要素については私を説明するうえで誤りということはまずないでしょう。では、怒りっぽいなどの相対的な傾向についてはどうでしょうか。怒りっぽい性格を形成する遺伝型というのもあるようです。しかし、たとえその遺伝型を持っていたとしてもどんな状況でも怒りをあらわにする、怒りっぽいと言われる人ばかりではないはずです。また、本人は頻繁に怒りを感じ、自分は怒りっぽい人間だと思っていても、表ではにこにこ振る舞い周囲からは穏やかな人、と思われていることもあるかもしれません。他者においても同じことがいえるので、相対的に自分が怒りっぽい人間かどうかというのは判断が難しいでしょう。

 また自分語りになってしまいますが、私は他の人と比べても環境によって「自分」が変わりやすい人間だと思っています。具体的には、相手やその場のグループの顔ぶれによって話し方や発言の頻度・内容、笑い方、雰囲気など性格を説明するうえでしばしば言及される多くのものを意図的・あるいは無意図的に変えています。

そのため、相手によって私の定義は異なります。長期間その相手・グループ内だけで関係を築くことはほぼ不可能なので、他のキャラクターで接している人同士の接触などによってたいていぼろが出ますが。最近はこの問題がちょくちょく起こるのでこのブログのように自分について考える機会が増えました。どの状況でも変わらず私は○○だといえるようなものには何があるかと。

 生物学的要素については絶対的に私だと説明することはできますが、それが私の定義として意味をなすのはせいぜい医者にかかったときぐらいしかないように思います。もっと私を説明するにふさわしいが、環境に左右されないものはないか。

先ほど社会的な要素は環境によって変わると申しました。環境によって自分の印象を変えているのは私の意志です。つまりその意志そのものはどんな場においても変わらないのではないでしょうか。その意志の根底にあるものは、私の場合相手がどんな人間かという興味(好奇心)と、環境に自分を適応させることで生きやすさを求める社会的動物としての本能です。後者は集団で生活するアリやミツバチなどの他の種がもつ本能とほぼ等しいので私個人を説明するうえではあまり適していると言えません。

前者の好奇心こそが私の説明としては最も適しているのではないかという結論に至りました。もちろん、他の人にも好奇心というのは備わっているものと思います。では何が私に固有なのかといいますと、私の性格や人生、行動選択のすべてが好奇心に基づいているということです。先ほどの周囲に自分を適応させるというのも、そうすることで相手がどのような人間なのかを知るのが格段にたやすくなるという利点があるからです。目の前にいる人間は自分とは異なる価値観を持っている、違う世界の人間だなどと感じれば、多くの人はその状況を不快と感じ相手と距離を置こうとします。相手を知るにはまず自分は仲間だと認識させ、安心感を与えることが重要です。ですからまずは相手の好みそうな人間を演じて近づき、関わる中でさらに分析を深めて相手と相手の望む私を理解することが必要なのです。

私がこうまでして他者と親しくなろうとするのは、全て完全な好奇心によるものです。多くの人と関わることでできるだけ多くの価値観や考え方に触れ、自分を成長させたいという欲求が人一倍あります。そのため、直感で苦手だと感じた人ほど積極的に関わろうとします。これが他の人と比べたときの私の特性だと思っています。なぜ深くかかわってもいないのに苦手と感じたのか、わからないままでいるのが耐えられないのです。

相手と接触し、価値観や行動・考え方の癖を十分に知り、苦手な理由を言語化できるようになって初めて相手を苦手な存在だと認知し距離を置きます。また、直感で苦手だと感じても、実際に相手と関わることで相手の存在によって無意識に自分のコンプレックスが刺激されていた、もしくは相手を自分の嫌な部分と重ねて自己嫌悪の対象としていたなどの自分の弱い部分を認めるきっかけになることもあります。というかむしろこの場合が多いです。つまり、苦手な相手と関わることで自分と向き合い成長できることも多々あるということです。

 こんな感じで、私は好奇心から人と関わろうとする人間なので、少し関わっただけでどんな人間かわかってしまうような人は面白みに欠けると感じすぐに関係を切ってしまいます。具体的には怒りっぽい人、プライドばかり高く他人を利用しようとする人などです。怒りっぽいと端からわかるような人は、動物的要素を制御できないということなので行動のほとんどが本能に基づいており、考えていることも予測できてしまうため関わっても何も得られません。他人を利用しようとする人もたいてい関係初期でその片鱗が見えることが多く、考えや行動パターンが定まっているため面白くありません。わざわざ搾取されにいく理由もありませんしね。概してこの人にはこんな対応をすればいいんだ、とわかってしまうと興味が失せるわけです。これが私です。もちろん、完全に人となりが理解しきれた人であっても、尊敬できる部分なり共感できる部分なりがあると長期的な関係を築こうと私から努力します。そのような人は貴重です。大事にしましょう。

 結局、私の場合自分がどのような人間かと問われたときには好奇心旺盛な人間だと答えます。みなさんはどうでしょうか。今のあなたを形作る軸となる要素には何がありますか。一度考えてみても面白いかもしれません。それでは、また。

絵画ビジネス

 前回少しだけ触れた絵画ビジネスについて。先に断っておきますが、私は絵画をはじめとした芸術に興味はあり基本的に好きではあるのですが、あくまで趣味の範疇ですので深い知識は持ち合わせていません。的外れなことを書いてたらごめんなさい。

 ピカソの絵は複数の視点から対象が描かれていたりと、当時絵画の最先端を突っ走っていたため多くの投資家たちが金を投げ、バブル期のマンションみたいになってたそうです(勿論売れた理由は他にもあったでしょうが)。私は思いました。印象派のような万人受けするわかりやすく優れた絵ならともかく、キュビズムの独創的ともいえる絵画を投資家たちははたして正当に評価していたのだろうか。まあしていないでしょうね。ピカソよりラッセンが好きというネタが生まれるくらいですし。私も学が不十分なのでまだピカソの良さを理解しきれていません。ピカソの絵は絵画としての価値よりもむしろ投資の対象としての価値が大きかったのでしょう。だから芸術がビジネス化されていると批判もされたのでしょう。では、それまでは絵画は完全に芸術の世界におさまっていたのか。そんなこともないですよね。ビジネス色があまりに強くなりすぎたから世間的にも問題視されるようになったのではないでしょうか。

 私は芸術が好きです。音楽、建築、絵画。ジャンルも問わずわりと広く好きで、音楽であればクラシック(バロックから現代まで)や民族音楽昭和歌謡から令和の邦ロックまでいろいろと聴きます。絵画や建築は少し狭いですが国内外問わず、最近は住宅も少し関心があります。前回のブログよりよっぽど自己紹介ですね。まあそんな感じで芸術全般好きなので美術館に足を運ぶこともままあります。少なくとも同世代の平均よりは確実に行ってます。美術館に行くとき、私は芸術そのものに触れることを目的としています。絵画そのものです。なぜこの構図にしたのか、この色を用いたのか、ほかの絵画との共通点はないか、などと絵画の背景を考えるのが好きです。そして最終的に自分の価値観を広げてくれることをその絵画たちに期待しています。

 しかし、美術館に展示されている絵は過去の人間に高く評価され、価値があるとみなされたからそこにあるものがほとんどです。では、その評価基準はなにか。技術力、斬新さ、まあいろいろとあるでしょうが、数値化して客観的に完全に正しい評価をすることは不可能です。それが芸術の良さでもあります。しかし、目に見えないものさしで良いと判断されたものだけが私の目の前に絵画として掛けられている限り、私の求める純粋な絵画鑑賞はできない気がするのです。その絵画たちはすでに物差しによって選別された状態であるため、どうしても偏りが生じてしまっているからです。絵画を、芸術を評価しようとすること自体がナンセンスなのではないかと思いました。これが前回言及した「枠を作ることが問題」の一つです。そもそも芸術は何のためにあるのか。少し考えた結果、人によって芸術の定義は異なるのだし無理やり意味づけようとするのはナンセンスだとなりました。再びの枠問題です。話の方向性がだんだんわからなくなってきました。

 とりあえず確実なのは、今の評価基準のもと評価されているものが優れた芸術作品であると刷り込まれていること、価値観を広げたいのであれば自分が限られた枠の中で「芸術」と接しているというのを自覚する必要があること、でしょうか。ピカソの良さが理解しきれていないとはいえ、私はラッセンよりピカソ派です。ラッセンは絵として完成しすぎているので分析の余地が少ないことが理由です。私は完全に主観でピカソのほうが好きと言っているつもりですが、おそらくこれまで受けてきた枠に対する一種の洗脳がこう考えさせているところもあるでしょう。どんなことにも言えますが、私たちは社会から与えられた枠の中で生きています。それが必ずしも悪いこととは言えませんが、そのことを自覚するのはこの生きづらい社会を生き抜くうえで必要なことだと私は思います。なんか自己啓発本みたいになっちゃいました。ちなみに私は自己啓発本が苦手です。考え方を強要されていると感じることがあるからです。あ、書き忘れてました。絵画の価値が金で測られ、それをあたりまえのこととして受け入れている私は所詮資本主義の犬なんだなと思い、Xでつぶやきました。所詮資本主義の犬なんだとしか書かなかったのですが、過激派と思われていたらどうしましょう。熱でおかしかったということにしとけばいいか。それでは。

ブログ始めました

 ただいまコロナに罹患中で暇を持て余しておりまして、ただYouTubeを見るだけというのもつまらないと思い、以前から興味のあったブログの執筆を始めることにしました。ベッドなうです。

 少しだけ自己紹介を。infjの大学生です。enfjかもしれません。人間をたった16タイプに分類するというのは愚かなことと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、また一部の方にとっては私がどのような人間であるかを知るのに少しは役立つのではと思い、一応書かせていただきました。

 mbtiというのは面白いものですね。科学的根拠は全くないと言われていますが、友人らと話しているとやっぱり考え方がそれぞれの型らしいなと感じることが多々あるのです。わたくし大学では心理学を専攻していまして、心理を学ぶものならなおさら人間の行動や考え方について統計ありきでしか語れないということは常識なのですが、私自身、自分の性格を見直すうえでmbtiはかなり役立ったためどうしても軽視できないのです。mbtiが科学的根拠があるという前提の上でも、四つのアルファベットにおいてそれぞれどちらかに強い傾向がある、というだけですべてのアルファベットで100%とでない限りこのmbtiだからこう!とは言えませんが。mbtiについて知っていく中で自己分析は進んだのですが、infjだからこのような思考になるんだ、これができないんだといった風に自分をinfj(enfj)の型に合わせにいってしまってないか、常に客観視していたいところです。血液型占いなどの占いもそうですが、特に自分の型について書かれているよろしくない点を自分の欠点と思い込んでしまうのは恐ろしいことですから。

 昨日、今日とベッドの上で天井を眺めながらいろんなことを考えていたのですが、どの考え事にしても毎回結局枠を決めるのがそもそもの問題だという結論に至りました。ちなみに今日は芸術がビジネス化されることについて少し思案しておりました。「ピカソより普通にラッセンが好き」というネタを思い出したのがきっかけです。私はどちらかといえばピカソ派だなと。高額投資の対象だったピカソの絵は絵画ビジネスの代表例だなと。

 とまあ、こんな感じでいつもしょうもないことを考えてます。考えてます連呼するのは語彙少ない人あるあるですね。鼻詰まりがひどいのでいったん寝ます。ここまで読んでくださってありがとうございました。それではおやすみなさい。